No51 太田康美 19回生 「私と長崎」

私が長崎に住むようになったのは、小学校4年生になる春休みのことです。それまでは、大分県別府の「地獄めぐり」で有名な鉄輪(かんなわ)温泉の麓付近に住んでいました。

近所にあった町の銭湯は天然の温泉で、家に風呂のなかった家族は、よく行っていたものです。そんな大分県から父の居なかった私は、母の仕事の都合で長崎に住むことになりました。

 昭和33年、一足先に長崎に赴いていた母を追って、祖母に連れられ共に暮らしていた従兄と三人で、朝早く大分駅から国鉄久大線の汽車に乗りました。久留米を経て鳥栖で長崎本線に乗り換え、着いたのは日も落ちたころでした。駅を降りて最初に目にした長崎の印象は今では覚えていませんが、ここから私の多感な少年期、青年期が始まったのです。

 時は流れて、社会人となって関西に住むようになった私ですが、長崎に帰省の折は、必ずふるさとの原位置ともいうべき住処があった本河内、そして伊良林、桜馬場、西山の地を懐かしく訪ね歩きました。

 関西には、ふるさとを繋ぐ同郷出身者の会として、長崎県人会をはじめ長崎各地のふるさと会、高校の同窓会などが30近くあると言われています。現在私は、神戸の長崎県人会に所属し、会員の皆さんがふるさとに想いを馳せられるよう、さらにふるさととの懸け橋となれるよう、会の役を努めさせて頂いているところです。

 次は、同期でトーク会(関西在住の19回卒業生)のメンバーでもある、松本素子さんにお願いいたします。