2017年7月23日(日) 第33回関西さるく会のお知らせ第2弾

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 第33回さるく会 郡山金魚さるくの見どころです。大和郡山は意外と私たちにも身近に感じる街です。当日の配布資料とほぼ同じ内容です。ご期待ください。
<郡山城址>
郡山城の築城は1580年筒井順慶が始め、1585年紀伊・大和・和泉の三ヶ国100万石であった豊臣秀長により拡張された。壮大な高石垣は荒々しい野面積で寺院の礎石、庭石、五輪塔、石地蔵などが用いられてる。また秀長は城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、地租免除や商売上の特権を与え、箱本制度という自治組織を作った。秀長の死後、増田長盛、水野勝成、柳澤吉里などが入城。柳沢家は6代145年間続いた。明治2年に柳澤保伸が藩籍を奉還し、明治6年に政府の方針により城郭が全て入札売却された。現在は復元された追手門、隅櫓、多門櫓などが往時を偲ばせている。天守台の石垣には逆さ地蔵、羅城門の礎石など転用石が多い。城内の桜は見事で桜百選にも選ばれ春にはお城まつりでにぎわう。
<永慶寺>
郡山藩主柳澤家の菩提寺。山門は旧郡山城の城門を移築した。長崎の崇福寺と同じ黄檗宗で崇福寺三門に似た弁天門がある。
<キリシタン殉教の碑>
明治2年、浦上のキリスト教徒3416人は異教徒として捕えられ、日本各地に配流された。そのうち86人が大和郡山へも強制送致された。彼らは5年にわたり強制労働に課せられ、6名が殉教したという。当初良玄寺にあった墓碑を1969年、カトリック郡山教会の敷地に移した。
<大納言塚>
豊臣秀長の墓所。1591年、郡山城内で没した秀長はここに葬られた。当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院<だいこういん>という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていた。しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託された。その後墓地は荒廃したが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆<えいりゅう>や訓祥<くんしょう>が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立した。五輪塔は高さ2メートルで、地輪の表面には戒名が刻まれている。
<金魚資料館>
1982年、やまと錦魚園が自費で設立。金魚の古書、資料などの収集は貴重。現存する色々な種類の金魚が飼育展示されている。
<源九郎稲荷神社>
古くは日本三大稲荷の一つ。義経が吉野に落ち延びた時、白狐が側室 静を送り届けた話は有名。「義経千本桜」の四段目の主人公はこの白狐、源九郎狐。中村勘九郎さんや市川猿之助さんも参拝に来られこともあり、歌舞伎ファンの方たちの参拝も多いという。

2017年7月23日(日) 第33回関西さるく会のお知らせ第2弾」への1件のフィードバック

  1. さるくにはちょうど良い曇りのお天気で郡山を楽しみました。
    幹事様と当日ご案内頂いた東高の奥様と北高の旦那様に感謝申し上げます。
    反省会の会費も激安で嬉し吃驚です。
    色々バッティングしますが、できるだけ参加できるよう段取りしようと思います。

    大東市在

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