2018年9月23日(日)第47回関西さるく会「藤原京さるく」を実施します。

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第47回関西さるく会「奈良・藤原京さるく」を実施します。
秋分の日、気候も良くなりました。初秋の奈良を散策しませんか?
集合日時:2018年9月23日(日) 10:00
集合場所:畝傍御陵前駅西口(近鉄橿原線)
散策ルート:
 ①奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
 ②早めの昼食
 ③本薬師寺とホテイアオイの群生地
 ④藤原宮跡朱雀大路跡
 ⑤藤原宮跡(大和三山に囲まれた藤原京の中心施設跡)
 ⑥おふさ観音
 ⑦大和八木駅前(反省会会場)
世話役:伊藤さん(24)、長岳さん(25)、森さん(34)、手嶋(23)

集合場所への交通
京都方面から:近鉄京都線・橿原線
大坂方面から:①近鉄奈良線西大寺から橿原線乗換
       ②近鉄大阪線大和八木から橿原線乗換
       ③近鉄南大阪線橿原神宮前から橿原線乗換

 

橿原考古学研究所・附属博物館

橿原考古学研究所が1938年以来行ってきた発掘調査の出土資料を中心に展示を行っています。博物館の特色は、橿原考古学研究所の調査・研究活動と一体となっていて、学芸活動として展示公開を行っていることです。展示は、発掘調査で出土した実物資料が中心で、常設展「大和の考古学」は日本考古学の基準資料を基に「目で見る日本の歴史」になっています。旧石器時代から縄文、弥生、古墳、飛鳥・奈良、平安~室町時代まで順に展示されていて見ごたえがあります。

本薬師寺跡

現在奈良市の西の京にある薬師寺(やくしじ)の前身にあたる寺です。天武(てんむ)天皇が後の持統(じとう)天皇である皇后の病気平癒のため祈願して、天武9年(680年)に薬師如来を本尊とする寺の建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。
当時は、金堂や東西に二つの塔がありました。平城遷都に伴って寺は伽藍ともども西の京へ移築されたと言われていましたが、別々に造られたという説が有力です。それ以来、この寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれるようになりました。

藤原宮跡

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。

694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首都として造営された日本で最初の都市である。 史料]には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、とある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代(持統・文武・元明)の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。

おふさ観音

寺のある地名と合わせて「小房(おふさ)観音」と呼ばれていて、正式名は高野山真言宗別格本山観音寺といいます。本尊である十一面観音は、もともと身体に健康を授けると言われていましたが、近年ではそれ以外に厄除け、子授け、長寿と老人病封じを願う人々が多く訪れるようになり、大和ぼけ封じ霊場会の札所にもなっています。江戸時代にこの辺りは大きな池でがあり、ある日、土地の娘「おふさ」さんが池のほとりを歩いていると、観音様が現れたというのです。この「おふさ」さんが、観音様を奉られたのが、お寺の起源だとも言われています。

 

 

 

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