2026年2月22日(日)第96回関西さるく会「大阪 平野郷さるく」紀行文

汗ばむ晴天のもと、23名で大阪市平野区の平野郷をさるきました。平野郷は聖徳太子が野原に安置した薬師如来像(全興寺)をもとに人が集まり集落を形成していったとのことで、中世には環濠と土塁で守られた自治都市として発展したようです。当日は狭い平野郷を右にいったり、左に行ったりしてさるきました。

まず、大念仏寺にお参りしました。ここは幽霊話が残っているお寺で幽霊が残したもの(片袖と香呂)が展示されている幽霊博物館は年1回した開館しないため残念ながら拝観できませんでした。このお寺の西門は、幕末までこの地を支配した古河藩(茨城県)の陣屋に建っていたものを明治期に移築したものだそうです。

 

次に末吉家や藤吉家、粕谷家が残る町屋ゾーンを歩きました。末吉家は坂上氏の子孫で7名家の筆頭の家です。

広野麿筋にある「かたな博物館」では、ちょうど3名の研師の方が刀を研いでいるところを見学できました。この通りの名前となった坂上広野麿の屋敷跡も訪ねました。広野麿は征夷大将軍坂上田村麿の次男でこの平野郷を朝廷から拝領し、町の発展に寄与した方です。末吉家は広野麿の子孫にあたります。

平野プロムナードは、南海平野線の跡地を公園化して、信号を残し、線路跡がブロックで分かるようにしていました。

昔懐かしいたたずまいの平野商店街は、平日には(下見時)、店がそこそこ開いていたのですが、日曜となると休みの店が多く閑散としていました。この商店街にある創業明治22年の小林新聞舗(新聞博物館)を訪ねましたが、これまた管理人が不在で、外からだけの見学となりました。商店街を抜けると平野公園があり、この一角にある「平野の黄金水」の井戸を見学。平野郷で唯一飲料に適する水だったようで、醍醐の花見で秀吉が愛でた平野酒にも使われたとのこと。平野公園には土塁も残されており、この土塁を見ながら昼食を摂りました。

昼食後、土塁の上を歩きました。敵の侵入を防ぐには十分の高さだったと思われます。

聖徳太子が安置した薬師如来像がまつられている全興寺にお参りしました。全興寺では「地獄から極楽への体験ができる寺」ということで体験コースが作られていました。特に地獄堂は音と映像で体験するもので、長蛇の列となって待たれていました。

だんじりの宮入ルートを歩いて杭全神社へ向かいました。この宮入ルートはだんじりが走行しやすい仕様で美装化されていました。きれいな道路です。平野のだんじりは、かなり古いだんじりが残されているようで、一番古いだんじり祭りとのことです。途中、平野小学校の校門の前に古河藩の陣屋跡の碑を訪ねました。古河藩は茨城県にありましたが、幕府から平野郷を飛地として拝領し、幕末まで支配していました。古河藩は親藩だったため大阪の守りのためこの地を治めさせたようです。杭全神社は、坂上田村麿の孫が862年に建立した古い神社です。日本に現存する唯一の連歌所があり、いまでも定期的に連歌会が行われているそうです。また、夏祭りには9町のだんじりが宮入をして夏の到来を告げるそうです。

 

最後に環濠跡を見学しました。杭全神社の裏手に残っていましたが、これよりも大きい環濠が平野郷を囲んでいたそうで、それにしても土塁と環濠を作るには相当な資金が必要であることは想像できますが、それだけ平野郷が豊かであったようです。

反省会は駅のすぐ前にある居酒屋で行いました。いつものとおり、飲まないグループ、ちょい飲みグループ、ぐい飲みグループの3テーブルに分かれての反省会でした。わいわいがやがやと、疲れを吹き飛ばす一時でした。

鳥山賢治(21回生)