9月20日(日)京都 嵯峨野 約3キロ
買い物ついでに自転車で嵯峨野まで繰り出して、田んぼの周りをのんびりとさるきました。
彼岸花、たわわに実った稲穂、落穂ひろいの鳥たち・・・、いつもながらの秋の嵯峨野の景色に癒されました。
K.O(37回生)&妻
足下にあった古墳時代からの遺構
私の住む町・才を南北に走る新道の夢前川西岸・広畑青山線工事が進んでいます。
この工事現場では、弥生時代から平安・鎌倉時代にかけての村の遺構が発見され、発掘調査が行われています。現地で行われた見学説明会に参加したので紹介します。
今回の目玉は、平安時代の初め頃のものとされる『暗文(あんもん)土器』の破片。
この土器は表面にへらで放射状やらせん状などの線を描いた文様(暗文)を持つのが特徴で、高級な金属器の輝きを模したものとされています。才村遺跡から発見された土器片は直径25cmほどの食器の蓋の一部と考えられる土師器(はじきき)で、『暗文』が確認されました。
梅雨の合間一日、猛暑の中13時からの見学会でしたが、多くの方が参加されていました。
今はコロナ禍の真っ只中、受付で三密を避けるための説明の他、検温、手の消毒、マスク着用、連絡先記帳などを行って参加が許されます。少人数にグループ分けされ、現場をさるくことになりました。
今回の説明現場は約1,800m²の範囲で、40個ほどの竪穴式住居跡、大昔の夢前川の流れ跡、土器などが並んでいました。かまどの跡もはっきりとしていて、焦げた土から火を使っていたこと、熾き灰を取り出した様子なども説明員の方には“見える”そうです。熱い説明に感心するばかりです。
さて、今回の目玉の『暗文土器片』はベージュ色の破片で手のひらより大きなものです。
うっすらと引っ掻いたような文様が見られました。今回の発見では、「この暗文がある土器は一般集落からは出土しない遺物で、付近に役所のような高貴な施設があった可能性があると推測される」ことが貴重だという事でした。
見学会に参加してみて、自宅から100mほどしか離れていない場所から弥生時代~中世の遺構が発見されたと言う事に加えて、住居跡・土器・かまど跡など確かな“弥生の日常”があって、その上方1.5m程の地層の上には“令和の今がある”、時代の繋がりに思いっきり感動した時間でした。
(25回生、松﨑 隆)
“Webさるく第3報 新大工町、馬町から西山をさるいた”
桜馬場中横の“春徳寺通り”を下り、“シーボルト通り”との交差点から小路を通って電車通りに出た。
電車道、中島川の向こうに伊良林小が見える。この小学校から桜馬場中へ行き、東を卒業した方も多いことだろう。
左に行けば蛍茶屋、その先が本河内へ続く国道34号線。
右に進み、新大工町に向かってさるいて行くと、新大工町バス停近くに石造りの建物が見えてくる。
卒業写真集などの作成も手掛けるスタジオだ。店舗の名前の響きが妙に懐かしい。
その先で右折し、片淵方面に少し行くと新大工町商店街の入口、“めがねの○○”がある交差点にくる。
反対方向が桜馬場だが、“長崎街道ここに始まる”と書かれた街道の起点を示す石碑もある。
“十八銀行”、“□□金物店”なども懐かしい。更に進んで行くと“新大工町市場”に来た。
生鮮食品を扱う多くの店は賑わっているようだが、このビルの上階にある昭和44年創業の“玉屋”は既に閉店している。
この商店街を抜けると橋を渡って諏訪神社下・馬町の交差点に出る。
先輩の方々はご存じだろうと思うが、この交差点手前の広場にはかつて“あの街頭テレビ”があった。
今は、諏訪神社方面への地下道入口と話題となった近未来的公衆トイレがある。
西山校舎方面に向かう。
途中、あったはずの石垣、その上の老舗料亭“富貴楼”が姿形もなくマンション工事現場となっている。
西山校舎に通っていた皆さんは歩道そばの高く真っ黒な石垣に想い深いと思う。
国登録の有形文化財でもあったこの料亭で食事することはなかったが、裏にある松森天満宮の境内で三角ベースをよくやっていたので古い建物だったことはよく憶えている。
想い出に登場する光景が少なくなっている。
バス道を西山方面に向かって進むと、右手に片淵中跡の“済生会病院”、左手に母校“上長崎小”が見えてきた。
西山歩道橋の左手奥が“西山校舎”があったところだが、跡形もない、面影もない。
小学校にプールが無かった私の世代は、高い壁の向こうにあった東のプールで水泳の訓練があった。おかげで泳げるようになった。
西山校舎の正門柱は立山校舎に記念碑として移設されているようだが、このあたりで唯一昔の面影を残していたのは長大経済学部のコンクリートの壁だ。
壁の向こうにはテニスコートが有り、3階の教室の窓からよく眺めていた。
長崎を離れて47年になるが、こうしてさるいてみると光景は変わっているものの、想い出は尽きていないと感じた。
今日はここまで。
(25回生 播磨のT.M.)
写真1 新しく建て直された伊良林小学校
<2020年6月28日 京都・山科>
一人さるくしてきました。
京都・山科の勧修寺です。
紫陽花と半夏生が満開でした。
蓮の花はこれからですね。
24回生 S.N.
<2020年6月28日 大阪・太子町36回生さるく>
今日は雨を吹き飛ばし、36回生で太子町をさるいてきました。
T氏の素晴らしいガイドのおかげでスムーズに無駄なくさるくことができました。ブドウ畑もたくさんあって、来月くらいにはシャインマスカットが市場に出るようで楽しみです。
近つ飛鳥博物館ではドローン撮影にチャレンジ!空撮も成功!
太子町 イヤーほんとに知らないこと、知らないところだらけでした。
楽しかったです。
36回生 N.K.
奈良と大阪の有志、11名で地域さるくを実施しました。今回はならまち界隈。
10時に近鉄奈良駅をスタート。東向き・もちいどの商店街を抜けならまちへ。江戸時代から明治時代にかけての風情溢れる街並みです。からくりおもちゃ館や中将姫伝説ゆかりのお寺などをさるいた後、奈良ホテルへ。本館は重厚で格式ある雰囲気でさるく会スタイルは場違いみたいですがスタッフのみなさんは快く対応してくれました。その後は5月24日にオープンしたばかりの瑜伽山(ゆうがやま)園地を散策し、浮御堂で記念写真。
あとはランチを残すのみ。奈良国立博物館や興福寺を経てイタリアンカフェへ。さるいた後の心地よい疲れを吹き飛ばしてくれる料理とおしゃべりに満足し地域さるくを無事終了しました。福地記(19回生)
私は暫くはWebで長崎の想い出の場所、主に小学生・中学生のころの想い出の場所をさるいて見ます。
今日はWebさるく第二弾、夫婦川から桜馬場中学付近をさるいてみました。
第一弾でさるいた片淵中学校をあとにして、経済学部のグランド横のバス道路を新大工町に向かって歩いていく。
西明寺前の交差点から夫婦川町に入ってみた。
小学生のころまでは、よくこの路地を通って“しろんこし”に遊びに行った。
途中、涸れない名水として有名な井戸“トッポ水”があるが、遊びの行き帰りで水分を補給したところ。
(今は使用(飲用)禁止。水神様として祀られている)
名前の謂れは、『その昔、行脚の途中に立ち寄った弘法大師が水涸れに苦しむ人々を見て、仏具の独鈷(どっこ)で地面を突いたところ、清水が湧き出した』と書かれてある。
“トッポ水”横の階段を上がって行くと、友人の実家・A旅館があったところで左に曲がる。
上っていくとすぐに、“春徳寺”の裏にでる。
左へ行くと“しろんこし”、右へ行くと“桜馬場”だ。
“しろんこし”での遊び場は、頂上の笹が茂る原っぱか、写真の石切場跡。
いま思うとかなり危ないところで遊んでいた。
鳴滝の友人の家にもよく遊びに行った。
また、桜馬場中学校の正門近くの模型屋で、戦艦・榛名のプラモデルを買ったのをよく覚えている。
春徳寺の正面へ回り、石垣の横を下って行くと桜馬場中学校の校舎が見えてくる。
今日は、運動場の横を下り、伊良林方面に、電車道まで出てみる。
播磨の25回生T.M.
2020年6月16日(火) 長崎をWebでさるいたら
片淵町をさるいていたら、“城の古址(しろんこし)”近くの高台に母校・片淵中学校を見つけました。
平成15年に写真のような新校舎となっていました。
その昔、“しろんこし”にあった長崎甚左衛門の山城『鶴城』を模した校舎だそうです。
“鶴の港”ににらみをきかす『鶴城』、なんとまあ素晴らしい!
天守4階は何部屋?、校長室?、展望所?と思い調べたら、高架水槽でした、想定外!
“長崎甚左衛門”とは何者?と思い調べていると、“長崎”という地名の由来につきあたりました。
(ちなみに、甚左衛門は開港当時、今の長崎を治めていた武将でした)
かつて、長崎の地は、諏訪神社のあたりから市役所、県庁まで高台がつづく長い坂があり、“森崎”という地があったようです。
当時の様子がわかる風景絵図をご覧下さい。
絵中、中央下には出島、その少し上に出城(現県庁付近)、絵図中央から北に向かって中島川をさかのぼると橋が幾つかあります。
そのいずれかが眼鏡橋でしょうか。
更にさかのぼると、現伊勢神社があるあたりから北東へ向かうと伊良林や蛍茶屋、北へ向かうと片淵ですね。
分岐の北に小さく諏訪神社、諏訪ノ森がみえます。
ここから、出島方面へ向かって高台がつづく長い坂の崎、だ・か・ら、“長崎”なのだそうです。
播磨の25回生T.M