“Webさるく第3報 新大工町、馬町から西山をさるいた”
桜馬場中横の“春徳寺通り”を下り、“シーボルト通り”との交差点から小路を通って電車通りに出た。
電車道、中島川の向こうに伊良林小が見える。この小学校から桜馬場中へ行き、東を卒業した方も多いことだろう。
左に行けば蛍茶屋、その先が本河内へ続く国道34号線。
右に進み、新大工町に向かってさるいて行くと、新大工町バス停近くに石造りの建物が見えてくる。
卒業写真集などの作成も手掛けるスタジオだ。店舗の名前の響きが妙に懐かしい。
その先で右折し、片淵方面に少し行くと新大工町商店街の入口、“めがねの○○”がある交差点にくる。
反対方向が桜馬場だが、“長崎街道ここに始まる”と書かれた街道の起点を示す石碑もある。
“十八銀行”、“□□金物店”なども懐かしい。更に進んで行くと“新大工町市場”に来た。
生鮮食品を扱う多くの店は賑わっているようだが、このビルの上階にある昭和44年創業の“玉屋”は既に閉店している。
この商店街を抜けると橋を渡って諏訪神社下・馬町の交差点に出る。
先輩の方々はご存じだろうと思うが、この交差点手前の広場にはかつて“あの街頭テレビ”があった。
今は、諏訪神社方面への地下道入口と話題となった近未来的公衆トイレがある。
西山校舎方面に向かう。
途中、あったはずの石垣、その上の老舗料亭“富貴楼”が姿形もなくマンション工事現場となっている。
西山校舎に通っていた皆さんは歩道そばの高く真っ黒な石垣に想い深いと思う。
国登録の有形文化財でもあったこの料亭で食事することはなかったが、裏にある松森天満宮の境内で三角ベースをよくやっていたので古い建物だったことはよく憶えている。
想い出に登場する光景が少なくなっている。
バス道を西山方面に向かって進むと、右手に片淵中跡の“済生会病院”、左手に母校“上長崎小”が見えてきた。
西山歩道橋の左手奥が“西山校舎”があったところだが、跡形もない、面影もない。
小学校にプールが無かった私の世代は、高い壁の向こうにあった東のプールで水泳の訓練があった。おかげで泳げるようになった。
西山校舎の正門柱は立山校舎に記念碑として移設されているようだが、このあたりで唯一昔の面影を残していたのは長大経済学部のコンクリートの壁だ。
壁の向こうにはテニスコートが有り、3階の教室の窓からよく眺めていた。
長崎を離れて47年になるが、こうしてさるいてみると光景は変わっているものの、想い出は尽きていないと感じた。
今日はここまで。
(25回生 播磨のT.M.)
写真1 新しく建て直された伊良林小学校
昨夜TVで江崎鼈甲店閉店と伝えられていました。急に長崎市内の様々な場所が鮮明によみがえり、ネットで県人会情報を見せて頂いたしだいです。
特に書いておられた高い石垣の上の料亭、K小学校、東高の窓からのぞけた経済学部のテニスコート(幼稚園児の頃父親のテニスについていったこともあります)、懐かしい限りです。
料亭はマンションになるのですね、なにもかも変わっていく中で小学校が元の位置にあるそうで嬉しいことです。なかなか帰省することもなくなっている中、
お写真付きの情報をありがとうございました。
伊良林小学校→桜馬場中学校→長崎東高に通った道!
色々な思い出が蘇ってきます。
伊良林の校舎が建て替えられたり、玉屋が解体されたり、中島川沿いは高層のマンションが建ち並んだり辺りの風景が大きく変わっていますね。
でも帰省の折に中島川沿いをそぞろ歩いてみると変わっていないものを発見することがあり、ほっとしますね。