No74 森重美優 72回生 「2回生と進路」

東高72回生の森重です。現在は、滋賀は彦根城のほとりで程々に幸せな大学生活を送っております。大学2回生ならではの最近の悩みについてお話ししたいと思います。

高校3年生当時、将来の夢や興味のある職業がなかった私はなんとなく経済学部に入りました。実際、経済学部の授業は法学や心理学、文学、統計学に言語学など、多岐にわたっていました。しかしその中にもやりたい事を見出せないまま、気が付けば2回生も半分が過ぎました。その一方で、この10月には所属するゼミや卒業のための類型を決めるなど、進路に関する選択を迫られているという状況なのです。

相変わらず具体的な夢がない私ですが、一つだけ1回生の頃から継続していることがあります。それは英語の勉強です。アカデミックライティングやプレゼンの授業を英語で受け、海外インターンシップも視野に入れて学んでいます。その中でなんとなくですが、進みたい道筋が見えてきたのがつい数日前です。具体的なことは決まっていないけれど、それでも自分の中に火が付いた感覚があり、この気持ちを大事にして勉強に励みたいと考える次第です。

次は高校時代に弓道部の後輩だった、73回生の小林さんに繋がせていただきます。

No73 長谷川由衣 72回生 「北陸旅行」

東高72回生の長谷川です。

現在は大学2回生で神戸市に住んでいます。
関西に来て早くも1年が経ちますが、まだまだ訪れたことのない土地が多く、旅の候補地がたくさんあります。その中でも最近行った北陸旅行について紹介しようと思います。

夏休み期間中、大学の友人と初めて北陸へ行きました。金沢-能登半島-富山を車で移動しながら巡るなかで、新たに経験することがたくさんありました。特に能登半島での滞在が印象に残っていて、遠くから来た甲斐があったと感じました。私たちは能登半島の先端にある珠洲岬を目指して、珠洲市内の旅館に1泊したのですが、夜の空に見える星の多さに驚きました。普段は町あかりに隠れてしまうような星がくっきりと見え、綺麗に尾を引く流れ星も見ることができました。満天の星を見ることがなかなか難しい今、とても貴重な体験だったと思います。
能登半島では他にも、ご当地の能登丼を食べたり、珠洲岬にある洞窟を訪れたりと様々な体験ができました。

まだ時間にゆとりのある学生のうちに、自分が行ったことのない土地を訪れ、たくさんの魅力を発見していきたいと思います。

次は、高校のときに同じ弓道部に所属していた森重美優さんにタスキを繋ぎます。

No72 鈴木里彩 72回生 「想像力は思いやり」

こんにちは。大阪大学法学部に在籍しています、鈴木里彩です。

「道徳的想像力」という概念を提唱した20世紀のドイツの哲学者ハンナ・アーレントに関する新聞記事を目にしたとき、高校時代学年集会の度に聞いた「想像力は思いやり」という野口学年主任の言葉を思い出しました。

当時は、いい言葉だな、と思いつつもその具体的内容について考えたことはありませんでした。しかし、人と直接会う機会が少なくなり人間関係が希薄になった今、改めて考えると、「今ここにいない」他者について思いを巡らせる力、すなわち想像力は、他者との共存を目指す上で絶対に不可欠な力なのではないかと思われます。

高校卒業から1年半が過ぎ、今や野口先生が繰り返しその言葉を私たちに投げかけたことの真意を知ることはできませんが、素敵な言葉を送って下さったことへの感謝を改めて感じました。

次は同じ72回生で神戸大学で法律を学んでいる長谷川由衣さんにタスキを渡します。

No71 三浦直樹 36回生 「GE」

36回生の三浦直樹(旧姓:末田)です。風頭の実家から磨屋小・桜馬場中・東高に通った後、京都で長過ぎる大学生活を送り、現在大阪に住んでいます。

今でも京都にはよく遊びに行くのですが、昨日行った嵐山モンキーパークは、なかなかハードな“登山”でした。

「あれ?このしんどさ、何か懐かしい」と思ってグーグルアースで調べてみたら、標高160m。実家170m、立山の母校190mとほぼ同じ。つまり、小・中では毎日1往復、高校では2往復の登山をしていた、と。何なら革靴で。まるで知らぬ間に大リーグボール養成ギブスで鍛えてもらっていたことであるなぁ、と感嘆した次第です。

ことほど左様に便利なグーグルアース。

バイト先だった普通の料理旅館が超高級ホテルに生まれ変わっても出迎えの渡し船の航路は渡月橋から1kmで変わりないとか、上洛してすぐ「夕方御所で」とアバウト過ぎる待合わせをしたせいで閉門後のやんごとなき敷地の周りをとぼとぼ歩いたのが四周4kmであったこと等々、簡単に確認できます。

ともあれ検索一つで懐かしい風景から知らない街まで自由自在のグーグルアース。

リアル自粛中の空想旅行におススメです。

次は大阪大学で法律を学んでられるという72回生の鈴木里彩さんにタスキを繋ぎます。

No70 小林 務 30回生 「長崎の思い出」

  30回生です。大学時代を含めると、京都居住27年です。
今年で62歳になりました。東高卒業後1年浪人し、4月生まれのため、長崎を離れ、京都に来た時は20歳直前でした。長崎で住んだ以上の年月を京都で住んだことになります。

地球温暖化のせいでもあるのでしょうが、京都の夏の暑さ、冬の寒さを体験すると、長崎の暑さや寒さは過ごしやすかったように感じます。
伊良林の家からは、正面に長崎港が見え、花火大会の時は、高台にあるので目の位置で花火が爆発していました。

京料理も美味しいのですが、長崎で小さい頃に食べた料理も美味しかった思い出があります。今では食べられない鯨の刺身や鯨カツはよく食べました。刺身もハマチが中心でした。鯛の刺身を食べた記憶は殆んどありません。出前で取るチャンポンや皿うどんの味も懐かしいものです。

母親も90歳を超えたので、できる限り長崎に帰省し、美味しいものを食べたいと思っています。

次は、中学校、高校、大学の後輩の三浦直樹さん(36回生)にバトンを渡したいと思います。

No69 宮崎俊博 19回生 「インスタグラムに救われた」

  大学卒業後はずっと関西で暮らしています。サラリーマン人生最後の十数年が京都だったため京都の友人が多く、本拠は大阪府和泉市にあるのですがリタイヤ後の今でも1/3くらいは京都に一人住まいしています。

 皆さん、コロナで人と会うのが制限される中いかがお過ごしですか。私も友人や離れて暮らす家族ともめったに会うことができず、生活を豊かにする上で会話がいかに大切かを痛感しました。
 そんな中、4年前からやっていたインスタグラムに救われました。インスタグラムは写真を投稿しそれをネタにやり取りをするSNSです。少しずつ私の投稿を見てくださる方も増え、毎回100~200の「いいね」が来るようになりました。
 インスタグラムでは相手の本名も年齢も性別も分かりません。しかし数日に1回その人の投稿写真を見て、たまにコメントのやり取りをしていると、だんだんと自分の中にその人のイメージが出来てきて、実際に知っている人のような感覚でやり取りをするようになります。そういうバーチャルな友人が日本中に、さらに海外(主に海外在住日本人)にも出来てくるのです。そこで交わされる、コロナで制限された日常とは違うやり取りが、不足した会話を大いにカバーしてくれました。
 人は歳を取るほど実際に会って会話をする相手は減っていきます。それを補うものとして高齢者こそSNSをやるべきではと思う今日この頃です。

 次は京都にお住いの30回生、小林務さんにお願いします。

No68 武藤健治 19回生 「法隆寺の思い出」

19回生、三重県四日市市在住の武藤健治です。生まれは本古川町。高校卒業までは上小島・夫婦川・鳴滝・岩見町に住みました。大阪での大学生活の後は大半を四日市で過ごしています。

勤務していた会社の社内報に“リレー随想”というコーナーがあり、私は寮生時代に職場の若い同僚を連れて京都や奈良の寺院巡りをしたことを書きました。
長崎を出るまで仏像鑑賞に興味を持っていたわけではありませんが、運動音痴の私は大学でのクラブ活動に、関西という地の利から古美術研究会を選びました。古美術研究会の新入部員歓迎会は例年、法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺の斑鳩コースです。法隆寺の(当時の)宝蔵で渡り廊下から入った小部屋にすらりと立った百済観音菩薩(飛鳥時代)を横から初めて拝観したときの感動は今でも忘れられません。五重塔のところでは見慣れた制服の女子高校生の一団を見かけました。しかもよく知った顔が。四年生で小島小から上長崎小に転校したとき隣同士に座ったMさんでした。東高定時制四年生の修学旅行だったのです。

40歳を過ぎてから市民マラソンに出場するようになり、斑鳩で二月に開催される“いかるがの里・法隆寺マラソン”も何度か走りました。還暦を過ぎ最後のハーフマラソン出場はこの大会と決め、退職後一年間はみっちり練習を積みましたが、当日は土砂降りで参加を断念せざるを得ませんでした。また一昨年九月の関西さるく会は思い出深い斑鳩の散策だったので、さるく・デビューしようと思い準備をしていました。ところが当日は台風17号が接近。参加できても帰路が大変なことになると思いこれも諦めました。何度も訪れた法隆寺ですが、悪天候はこの2回だけ。そんな思い出もある法隆寺です。

次は高校の三年間同じクラスだった宮崎俊博さんにタスキを渡します。

2004法隆寺マラソン参加賞

No67 桑原進 19回生 「老人の思い出」

  19回生の桑原です。磨屋小、桜馬場中、東高を卒業しました。現全体同窓会会長の波多野氏は小6の同級生で付き合いが60年以上になります。
さて東京2020も終わりましたね。みなさんはどんな思いでオリンピックを見ましたか?
私は1964年の高1の時、諏訪神社下の交差点で見た聖火リレーを思い出しました。
聖火のトーチを持って走ったのは東高陸上部の主将で伴走・随走者は同じ陸上部の部員たちでした。わずか4~5分でしたが県庁に向かっていくメンバーたちの溌溂とした姿が印象的でした。声援を送っていた私も感動していたことを覚えています。

 あれから半世紀、今年の聖火リレーをテレビで幾度か見ましたが、あの時の感動は伝わってきませんでした。
東京2020で女子バスケチームは活躍しましたね。米国との決勝戦は見ていて力が入りました。努力はいつの日か結果につながると、改めて教えられた思いです。

 バスケの試合では1964年以降ですが東高では次のような試合がありました。
ある日、米国海軍の戦艦が県庁への表敬訪問のため、長崎港へ寄港してきました。この時に米国は一般市民との交流を希望し、その一環として乗組員とバスケの試合を提案していました。その相手として東高が選ばれたのです。当時の東高は県大会に出場して優勝を狙える実力のあるチームでした。東高の体育館での交流試合は米国人の体格の大きさとスピードに圧倒された迫力のある試合でした。
生まれて初めて外国人が目の前でプレーする姿を見て感動したことを覚えています。試合の結果は忘れましたが・・・・。

 東高時代の思い出話は尽きることがありません。これからも懐かしく思い出すでしょう。
ではみなさん ごきげんよう われらが母校“ひがしに光あれ” 完

次は同期でお隣三重県在住の武藤健治君にタスキを渡します。

No66 寒川千恵子 25回生 「愛知より」

  転勤で国内を回った後、今は愛知県春日井市に落ち着いています。
名古屋市のベッドタウンである春日井市の北東部にある高蔵寺ニュータウンは東京の多摩、大阪の千里と並ぶ三大ニュータウンでしたが、高齢化で今では空き家が目立つ町となりました。名古屋駅までは電車で30分。名古屋も田舎の都会で文化・交通の便等、意外と住みやすい所だと思います。春日井市は書とサボテンの町。小野東風の生地であり、サボテンの栽培が盛んで、サボテンラーメンなども開発されてます。

旗揚げ、精霊流し、おくんち等一年中ワクワクしてた身としては、季節が淡々として過ぎていくことに淋しさを感じます。そんな楽しい思い出を長崎弁で年の差を超えて話せる 「さるく会」の再開を楽しみにしています。

次は同じく愛知県にお住いの19回生の桑原進さんにお願いします。

春日井市にある王子製紙工場内のバラ園
(一般開放しています)

春日井市のマスコットキャラクター

No65 倉田博幸 25回生 「コロナと私」

  25回生、大阪府豊中市在住の倉田博幸です。
福県柳川市で生まれて、諫早市、長崎市と移り住み西町小学校、勝山小学校、上長崎小学校、片淵中学校から長崎東に入り、大阪に来て42年になります。長崎の実家は西山本町、諏訪神社の上、長崎中学校のすぐ下で、当時は長崎中学校はまだ下にあり移転前で、立山公園がありました。諏訪神社の周辺は子供の頃からの遊び場で椎の実やどんぐりを拾ったり、当時は林間の車道はまだできてなくて石段になっていたので、ダンボールを敷いて滑って遊んでいました。
小中高と坂下の平地にあり、自宅は坂の上の方にあったので毎日坂の登り降りをしていたのに、そんなに苦とも思っていませんでした。

2020年1月から始まったコロナ騒動は今回が4度目の緊急事態宣言ですが、1度目、2度目、3度目では公共の体育施設が使用禁止となり、普段やっている剣道の稽古は出来ませんでしたが、8月2日から始まった今回はオリンピック開催の整合性のためか使用許可が出たおかげで、マスクをしてシールドを面につけてなんとか稽古が出来ています。
過去3回の緊急事態宣言の期間中、剣道ができない時は自宅近くの千里川沿いに遡って、野鳥を観察したり、箕面の山のいろんなハイキングコースを歩き回り、時には勝尾寺まで足をのばし、最後は箕面の滝を見て家に帰るという日々でした。

  同窓会写真クラブに在籍しているので、野鳥の写真を撮りたいと思ったのですが、中々難しくこれにはかなりの準備と忍耐力が必要なため、今回は諦めました。
19回生の高秋夫さんが723種の野鳥撮影をされているのは驚異的で、しかも完成度の高い写真を撮られているのは素晴らしく、機会があれば他の写真も是非見せていただきたいと思っています。

次は同期で総会やさるく会に遠く愛知県から参加してくれている寒川千恵子さんにタスキを繋ぎます。

水辺のアオサギ

夕陽と雲

民家の花畑