No54 波多野徹 19回生 「長崎から感謝と思い」

 関西同窓会の皆さんお久しぶりです。19回生、同窓会会長を拝命中の波多野徹です。コロナ禍で辟易の日々ですが、オリンピック選手の活躍による歓喜、また感動の涙に救われてます。

長崎は本年で開港450年を迎えます。

我が母校も新制高校となって73年、前史に遡れば旧制長崎中学校から173年、更に長崎商業と同じく英語伝習所から162年、更に長崎聖堂から345年。

我が故郷は何と面白い歴史上の街でしょう。是非、コロナ禍が落ち着いたら延期した次の同窓会総会で長崎に帰省されたし!各回の同窓会生が歓待してくれます。

ところで会報は見ていただいてますか?

学生も学校、先生、PTA、我ら同窓会生も奨学会も頑張っています。この経済的維持は皆様の協賛金と寄付金に支えられてます。私の理想は一人千円。もしお送りした約二万人全員がそそうなら万々歳。それに近づけたらと願うばかりです。
先日、総合文化祭とインターハイの出場者メンバーへの支援金の贈呈式に代表して母校に行ってきました。孫の年代です。

行動があれば思いは繋がって行くものです。皆様とともに。

次は現在母校の教師で同窓会の専務理事を担当していただいている山口一守さん(45回生)にタスキを繋ぎます。山口さん、よろしくお願いいたします。

写真は13回生堀さんが編集した450年記念の書籍です。版画は田川憲さん。田川さんの長男肇さんは14回、二男良さんは19回です。

No53 楠本茂 19回生 「東京2020雑感(選手に感謝)」

昭和46年に三菱重工神戸に入社、以来原子力の設計、保全と幅広く手掛け、いろんな人と会話し、アフター5の乾杯ができたことが私の財産です。

コロナ渦で、オリンピック開催の賛否が問われる中、東京2020は始まりました。1964年の東京オリンピック(57年前)は、国民挙っての祝福ムードの中で行われ、聖火リレーでも、東高の吉村先輩(中距離陸上のホープ)が華麗なフォームで蛍茶屋の坂を駆け抜ける姿に、皆で声援を贈ったことが思い出されます。

あの頃のオリンピック開会式の主役は選手の行進と聖火の点火と観客の歓喜で、NHKのアナウンサーがその様を熱弁していたことが思い出されます。

東京2020の開会式については、「ドロン」や「ピクトグラム」等新しい試みも見られましたが、テーマにインパクトが感じられなかった等の意見も聞かれました。

でも、いざ競技が始まると選手の力なのでしょうか、いろんなドラマが展開され、思わず引き釣りこまれます。

三宅宏美選手(35)は、最初の試技でこそバーベルが挙がりましたが、その後の試技では挙がることなく試技を終え、少し笑みがこぼれたようにも見えました。あの笑みは何だったのでしょうか?重量挙げは、単純なだけに厳しい競技です。挙がらないと感じた時の選手の気持ちを思うとハラハラドキドキです。五度目のオリンピックに挑戦してきた父娘の今までの思いがよぎったのでしょうか?

体操の内村航平選手(32)もまさかの鉄棒からの落下、彼自身信じられなかったことでしょう。でも体調は年と共に微妙に変化します。1年前の開催であれば、恐らく彼は金メダルを当たり前に勝ち取ることができたと思います。慰めは橋本選手(19)が体操男子で金メダルを取り後継者として育っていたことです。

柔道では阿部一二三、詩兄妹が金メダルを取ってくれました。実家は兵庫区の和田崎町笠松商店街の喫茶「レオーネ」で、入り口の傍の窓の壁の下に兄妹の幼少期の手形(お宝)が今でも残っています。彼らが通っていたお好み焼き屋さん「よりみち(小さなお店)」では、現在、「祝兄妹金メダル、ビール、酎ハイ123円(お一人様2杯まで)」の看板が出ています。聞くところによると兄の一二三は緻密な努力家で、妹の詩は天才肌と聞きましたが、詩は数年前の代表選抜の試合に敗れた時、悔しさのあまり号泣し、「プレッシャーに負けるようでは、まだまだできていない、強くなりたい」とコメントしていました。彼らの試合態度やコメントにおける相手選手への尊敬や育ててくれた人への感謝等において彼らの真っすぐな心を見ることができ、日本の若者も凄いなと感心します。

スケートボードの西矢椛選手(13)も我々はとても真似ができない新しい感性の若者です。

昨夜フェンシング男子団体エペ「金メダル」の驚きのニュースがありました。

これまでのところ日本選手の活躍は素晴らしく7月30日の時点で金17、銀4、銅7個です。筋書きのないドラマはまだまだ続きます。我々が感動するのは、この舞台に立つまでに、選手(アスリート)が想像を絶する努力を積み重ねてきたことを理解するからだと思います。

「緊急事態宣言」,「まん延防止」の延長が決定されました。Withコロナの時代をどうしのぐかが当面の課題です。オリパラが無事に終わり、ワクチンの効果でコロナが収束に向かい、さるく会等の反省会で再び皆で談笑、乾杯できる日が来ることを祈り、次の方にタスキをつなぎたいと思います。

次は長崎東高同窓会の会長で、19回生のホープ波多野徹さんにお願いしたいと思います。波多野さん宜しくお願いします。

No52 松本素子 19回生 「日々是好日」

大阪の南、和泉市に住むようになり40年余りになります。

 中学校の時、社会の時間に「大阪に紡績で栄えた和泉というところがある。わいずみと書いていずみと読む。」と習ったことをなぜか鮮明に覚えています。そこに住むようになるとは思ってもみませんでしたが、記憶に残っているということは何かの縁があったのでしょう。
堺市と岸和田市に挟まれた『とかいなか』です。信太の森の葛の葉物語や光明皇后伝説など歴史的な伝説も多いところです。

 コロナ禍で以前とは異なる生活になりました。ワクチン接種を2回済ませ、気持ちは少し楽になりましたが、友人と食事しながらおしゃべりすることは、もうできないのかも知れません。
続けていた食育のボランティア活動は制約が多く、本来の活動はできませんが、形を変え少しずつできるようになってきたことはうれしいことです。

これから先、時代のありさまがどのように変わろうとも、その中から楽しみを見つけ、適応していかなければならないだろうと思います。
さるく会が再開されたとき、後れをとらないように我が家の庭のような近くの公園を歩いています。再会を楽しみにしています。

 次はいつも穏やかな同期の楠本茂さん、よろしくお願いいたします。

 

No51 太田康美 19回生 「私と長崎」

私が長崎に住むようになったのは、小学校4年生になる春休みのことです。それまでは、大分県別府の「地獄めぐり」で有名な鉄輪(かんなわ)温泉の麓付近に住んでいました。

近所にあった町の銭湯は天然の温泉で、家に風呂のなかった家族は、よく行っていたものです。そんな大分県から父の居なかった私は、母の仕事の都合で長崎に住むことになりました。

 昭和33年、一足先に長崎に赴いていた母を追って、祖母に連れられ共に暮らしていた従兄と三人で、朝早く大分駅から国鉄久大線の汽車に乗りました。久留米を経て鳥栖で長崎本線に乗り換え、着いたのは日も落ちたころでした。駅を降りて最初に目にした長崎の印象は今では覚えていませんが、ここから私の多感な少年期、青年期が始まったのです。

 時は流れて、社会人となって関西に住むようになった私ですが、長崎に帰省の折は、必ずふるさとの原位置ともいうべき住処があった本河内、そして伊良林、桜馬場、西山の地を懐かしく訪ね歩きました。

 関西には、ふるさとを繋ぐ同郷出身者の会として、長崎県人会をはじめ長崎各地のふるさと会、高校の同窓会などが30近くあると言われています。現在私は、神戸の長崎県人会に所属し、会員の皆さんがふるさとに想いを馳せられるよう、さらにふるさととの懸け橋となれるよう、会の役を努めさせて頂いているところです。

 次は、同期でトーク会(関西在住の19回卒業生)のメンバーでもある、松本素子さんにお願いいたします。

No50 山崎博美 37回生 「コロナと私(休業~転職)」

卒業後、東京、ロンドン、東京、神戸と転居を重ね、神戸在住22年です。気が付けば今の住まいが郷里の長崎を含めても最も長く暮らしている場所となりました。

2017年に娘が中学生になったのを機に再就職活動をして当時大阪本町に開業されたばかりの全館165室ほどのビジネスホテルのスタッフとして働き始めました。2019年に全4店舗の予約を統括して行う本部で働き始めて半年ほどでコロナ禍が始まりました。インバウンド団体の予約を主に団体予約の獲得に力を注ぎ、自社清掃部を立ち上げ外国人留学生のアルバイト雇用を進める等頑張って来た事の全てが大波にさらわれた砂の城のように簡単に崩れてしまいました。

4月末から休業手当を貰いながら自宅待機。色々と考えを巡らすうちに大阪の介護スクールで7月開講の短期コースを授業料、教材費免除で受講出来る機会に恵まれました。7月末に介護士の資格を取得し、8月後半から現在の職場で研修を始め、月末に正式にホテルを退社。

研修を経て10月から正職員として働き始めました。今の職場は養護盲老人ホームという視覚障害を伴う高齢者の暮らしをサポートする施設です。介護の仕事に慣れる事も勿論ですが、視覚障害のある高齢者の方の生活支援について日々新しい気付きや学びがあります。一通りの業務に慣れて来た今、私に出来るプラスαを考えながら自分自身も高めて行ければと思っています。

次の襷は、関西さるく会の同じ兵庫県の地域役員でお世話になっている19回生の太田さんにお願いいたします。

PS 森島さんへ、タスキを渡していただきありがとうございます。また機会があればご一緒しましょうね。

 

六甲ケーブル下駅までバス。

なかなかな通勤道。

No49 森島奈央 72回生 「テスト」

   「大学生になったら、こんな風に過ごしているだろうな」という想像とかけ離れた生活も1年以上が過ぎました。だんだんこの暮らしにも慣れてきましたが、大学のテストを一度も経験していないことには未だに妙な気分にさせられます。

高校時代、私はあまり勤勉な方ではありませんでした。それでも、テスト期間にはテスト勉強に励み、テストを受け、結果に一喜一憂しました。高校生活の中で「テスト」は当たり前に存在するものでした。

しかし、大学に入学してみると、1年生はほとんどオンライン授業になり、対面でのテストどころか、オンラインでのテストもなく、レポートで学期を締めくくりました。これは、2年生になった今でも同じで、私は未だに大学でテストを受けたことがありません。

テストが受けたくてたまらない!と言うと嘘になりますが、全くないというのも寂しいものだと最近思うようになりました。状況がだんだん回復にむかってきて、全部が対面授業になり、テストが再開される日もそう遠くないのではないかなと思います。

 神戸の下宿で、大学から出される宿題をもくもくとこなしていた寂しい時期に、東高の先輩として、楽しいお話を沢山聞かせてくださった37回生の山崎博美さんにこのタスキを繋ぎます。

No48 岡村さにい 72回生 「コロナと大学生活」

  大阪で一人暮らしをしている大学2年生です。

  あっという間に時間は過ぎて、気づけば大学2年生の7月を迎えようとしている中、「来年はきっと大丈夫」と言われていたコロナも収束の見込みはありません。大阪では緊急事態宣言が解除されましたが、まん延防止等重点措置は発令されたままの状況でまだ日常は戻ってきません。

私の大学では、昨年度は完全オンライン授業、そして今年度もまだ対面授業が徐々に始まり、未だにまともな大学生活を経験できていません。交換留学生にも選んでいただき秋学期から留学する予定でしたが、コロナの影響で延期になってしまいました。

このように上手くいかない日々が続いていた自分を支えてくれたのが、高校時代の友人からの連絡でした。長崎を出たいと懇願していた自分でしたが、離れてみることで長崎が恋しくなっていました。通う学校が変われば置かれる環境も変わり、新しい友人関係を築くことで昔の友人と疎遠になってしまうことが多いと言われる中で、今でも変わらず私に長崎での居場所を残してくれていたり、都会の情勢や一人暮らしを気遣ってくれたりと、距離は離れていても交流が続いているのがどれほど嬉しいか実感することができました。

気軽に旅行ができ、会いたい人に会いに行ける日常が戻ってくることをひたすら願い続けようと思います。

次は、同級生の森島奈央さんにこのタスキを繋ぎます

No47 池田志成 72回生 「強歩大会」

   サッカー部の大先輩からタスキを繋いでいただきありがとうございます。
南陽小学校を卒業し、中高6年間を東で過ごしました。現在は大阪大学に通っており、長崎弁、関西弁、標準語の混ざったなんだか気味の悪い日本語を話しています。 

東での6年間で様々なイベントを経験しましたが、一番印象に残る行事は強歩大会でした。約20キロのでこぼこ道を仲間とともに走破するあの行事。当時は、きつくて苦しくて二度と経験したくないほど嫌な行事でしたが、卒業して無くなってしまうと、なんだか寂しい、、、ということで、登山部を立ち上げ、プチ強歩大会を開催しました!第1回は烽火山。部員は5人でしたが、受験勉強で鈍りきった身体に鞭を打ち、走って登頂しました。もちろん死ぬほどきつかったですが、青春に戻った気がして嬉しくなりました。
第2回は雲仙普賢岳。部員は8人に増え、プチ強歩大会という可愛らしい名前に釣り合わない過酷な山道を登りました。来年はどの山に登ろうかなあ。同期の方々、入部お待ちしております。

次は同じ72回生の岡村さにいさんにタスキを繋ぎます。

烽火山からの眺望。

雲仙普賢岳からの眺望。

 

No46 野崎義規 27回生 「なかなか出来ないこと。」

申年生まれの65歳、高校時代はサッカーに夢中でした。6月で65歳になりました。1回目のコロナワクチン接種終わり、2回目を待っている状況です。接種後は外食にいきたい!

会社勤めも本年の9月をもって退社予定です。なので、断捨離を2年位前からやろうと動いてますが、なかなか出来ません。

身近なところから洋服の処分。タンスの中には着ないスーツ、コートなどその時代に合わせて買った思いがあり、次のシーズンには処分しようとなり越冬を繰り返しています。
親から相続した不動産。長崎にあり、将来管理不能となる事が予想されるのでこれも処分しなきゃ。でも未だ半分残ってる。

気持ちはあるが、執着心・もったいないという固定観念から開放されず動きが遅い。退社後は何をするでもなくただ家にいると、妻から私が早々と断捨離されるかも(笑)。

次は昨年大阪へ進学された72回生にサッカー部出身者がいると聞きました。45歳も若い池田志成君にタスキをお願いしたいと思います。頼もしい後輩、よろしく!

No45 藤重 茂 27回生 「昭和40年代の思い出」

 私は長崎市内で生まれ育ちました。

   磨屋小学校時代は風頭山と中島川にはさまれたエリアが主な活動の場で、当時の県立図書館あたりが最も遠くの行動範囲だったように思います。当時住んでいた家は万屋町にあり、周りはなかなかの賑やかさで、今思えばかなりファンキーな環境で多感な時代を過ごしたものだと思います。
夏休みには鼠島の水泳道場に今村写真館の今村君と一緒に通っていました。もちろん毎日のように徒歩で大波止まで行き第〇鶴丸という渡船に乗ったものです。
また浜町の商店街にもたくさんの同級生がいて、いつもアーケードで遊んでいたのが懐かしい思い出です。アーケードにあった「二枝鼈甲店」の二枝君や、同じく商店街にあった洋菓子の「ルミエル松月」の松永くん、思案橋にあった江戸時代から続く「平石時計店」の平石君、今も観光通りで商売されている、蕎麦屋「明月庵」の矢野君など、懐かしい顔を思い出します。そうそう、榎津町のマンションにプロレスラーになった「大仁田風呂敷」の大仁田厚君が住んでいて、彼とも親しく遊んだものです。
 中学は桜馬場中学に1年かよって、実家が丸山に引っ越したのに伴い、大浦中学に転校しました。丸山の家は花月の裏側の昔は置屋だったと思われる古いしもた屋で、検番の手前の路地の坂を上った、梅園天満宮のそばにありました。今は思い出すすべもありませんが、1970年ごろには丸山公園から花月の前を通る広い通りの両側には遊郭だった大きな木造3階建ての建物がいくつか残っており、不思議な光景でした。丸山遊郭の中心部だったんですね。

子供の頃は古き良き戦前の雰囲気を残した町々も今はすっかり変わってしまいましたが、当時に思いを馳せながらこれからさらに変わりゆく長崎に大いなるワクワク感と若干の寂寥感を感じながら、見守っていきたいと思います。

次は同期の野崎義規君にタスキを繋ぎます。よろしくお願いします。