2016年4月24日(日) 関西さるく会「当麻寺さるく」その一

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「当麻寺さるく」の紹介その一は中将姫伝説です。

中将姫伝説(中将姫をクリックすると中将姫のWebサイトに見れます)

tyujouhime taimamanndarahaka
 中将姫は、藤原鎌足のひ孫、藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。幼いころ中将姫を嫌う継母は裸にして雪をかけたり、毒を盛ったり、あげくに11歳の時に家臣に殺すように命じました。しかし家臣は姫の心優しさを知っており、継母を欺いて菟田野のひばり山へ隠れ住まわせました。
 その後父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより当麻寺に入り、十七歳で中将法如として仏門に入り曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸(石光寺)に浸すと糸は五色に染まりました。そしてその蓮糸を、一夜にして一丈五尺 (約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げたといいます。
 姫が二十九歳の春、雲間から一丈の光明とともに、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、姫は、生きながら西方極楽浄土へ迎えられたと伝えられています。
「練供養会式」は、その伝承を再現したもので、毎年5月14日に当麻寺において行われています。
中将姫の名前:本名不詳。彼女のオ能が世に知れ、9歳の時に孝謙天皇から三位中将の位を賜わったためとも、l3歳になったとき中将の内侍となり、
それから中将姫と呼はれるようになったとも言われている。
中将姫の物語:l3世紀の「嘗麻曼荼羅縁起絵巻」や「古今著聞集」に、あるいはl4世紀の「元享釈書Ⅰなど収められ、鎌倉時代にはすでに世間に広く流布していた。
室町初期になると、世阿弥元清が中将姫を主人公にした謡曲「菖麻」と「雲雀山」を作り、姫の名は世人に親しまれるようになった。 江戸時代にほ、近松門左衛門などの劇作家によって中将姫が継母に虐げられる哀話が作られた。
中将姫のお墓:当麻寺から石光寺に向かう途中にある共同墓地の一部に墓や五輪塔がある。

 

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