No52 松本素子 19回生 「日々是好日」

大阪の南、和泉市に住むようになり40年余りになります。

 中学校の時、社会の時間に「大阪に紡績で栄えた和泉というところがある。わいずみと書いていずみと読む。」と習ったことをなぜか鮮明に覚えています。そこに住むようになるとは思ってもみませんでしたが、記憶に残っているということは何かの縁があったのでしょう。
堺市と岸和田市に挟まれた『とかいなか』です。信太の森の葛の葉物語や光明皇后伝説など歴史的な伝説も多いところです。

 コロナ禍で以前とは異なる生活になりました。ワクチン接種を2回済ませ、気持ちは少し楽になりましたが、友人と食事しながらおしゃべりすることは、もうできないのかも知れません。
続けていた食育のボランティア活動は制約が多く、本来の活動はできませんが、形を変え少しずつできるようになってきたことはうれしいことです。

これから先、時代のありさまがどのように変わろうとも、その中から楽しみを見つけ、適応していかなければならないだろうと思います。
さるく会が再開されたとき、後れをとらないように我が家の庭のような近くの公園を歩いています。再会を楽しみにしています。

 次はいつも穏やかな同期の楠本茂さん、よろしくお願いいたします。

 

No51 太田康美 19回生 「私と長崎」

私が長崎に住むようになったのは、小学校4年生になる春休みのことです。それまでは、大分県別府の「地獄めぐり」で有名な鉄輪(かんなわ)温泉の麓付近に住んでいました。

近所にあった町の銭湯は天然の温泉で、家に風呂のなかった家族は、よく行っていたものです。そんな大分県から父の居なかった私は、母の仕事の都合で長崎に住むことになりました。

 昭和33年、一足先に長崎に赴いていた母を追って、祖母に連れられ共に暮らしていた従兄と三人で、朝早く大分駅から国鉄久大線の汽車に乗りました。久留米を経て鳥栖で長崎本線に乗り換え、着いたのは日も落ちたころでした。駅を降りて最初に目にした長崎の印象は今では覚えていませんが、ここから私の多感な少年期、青年期が始まったのです。

 時は流れて、社会人となって関西に住むようになった私ですが、長崎に帰省の折は、必ずふるさとの原位置ともいうべき住処があった本河内、そして伊良林、桜馬場、西山の地を懐かしく訪ね歩きました。

 関西には、ふるさとを繋ぐ同郷出身者の会として、長崎県人会をはじめ長崎各地のふるさと会、高校の同窓会などが30近くあると言われています。現在私は、神戸の長崎県人会に所属し、会員の皆さんがふるさとに想いを馳せられるよう、さらにふるさととの懸け橋となれるよう、会の役を努めさせて頂いているところです。

 次は、同期でトーク会(関西在住の19回卒業生)のメンバーでもある、松本素子さんにお願いいたします。

No50 山崎博美 37回生 「コロナと私(休業~転職)」

卒業後、東京、ロンドン、東京、神戸と転居を重ね、神戸在住22年です。気が付けば今の住まいが郷里の長崎を含めても最も長く暮らしている場所となりました。

2017年に娘が中学生になったのを機に再就職活動をして当時大阪本町に開業されたばかりの全館165室ほどのビジネスホテルのスタッフとして働き始めました。2019年に全4店舗の予約を統括して行う本部で働き始めて半年ほどでコロナ禍が始まりました。インバウンド団体の予約を主に団体予約の獲得に力を注ぎ、自社清掃部を立ち上げ外国人留学生のアルバイト雇用を進める等頑張って来た事の全てが大波にさらわれた砂の城のように簡単に崩れてしまいました。

4月末から休業手当を貰いながら自宅待機。色々と考えを巡らすうちに大阪の介護スクールで7月開講の短期コースを授業料、教材費免除で受講出来る機会に恵まれました。7月末に介護士の資格を取得し、8月後半から現在の職場で研修を始め、月末に正式にホテルを退社。

研修を経て10月から正職員として働き始めました。今の職場は養護盲老人ホームという視覚障害を伴う高齢者の暮らしをサポートする施設です。介護の仕事に慣れる事も勿論ですが、視覚障害のある高齢者の方の生活支援について日々新しい気付きや学びがあります。一通りの業務に慣れて来た今、私に出来るプラスαを考えながら自分自身も高めて行ければと思っています。

次の襷は、関西さるく会の同じ兵庫県の地域役員でお世話になっている19回生の太田さんにお願いいたします。

PS 森島さんへ、タスキを渡していただきありがとうございます。また機会があればご一緒しましょうね。

 

六甲ケーブル下駅までバス。

なかなかな通勤道。

No49 森島奈央 72回生 「テスト」

   「大学生になったら、こんな風に過ごしているだろうな」という想像とかけ離れた生活も1年以上が過ぎました。だんだんこの暮らしにも慣れてきましたが、大学のテストを一度も経験していないことには未だに妙な気分にさせられます。

高校時代、私はあまり勤勉な方ではありませんでした。それでも、テスト期間にはテスト勉強に励み、テストを受け、結果に一喜一憂しました。高校生活の中で「テスト」は当たり前に存在するものでした。

しかし、大学に入学してみると、1年生はほとんどオンライン授業になり、対面でのテストどころか、オンラインでのテストもなく、レポートで学期を締めくくりました。これは、2年生になった今でも同じで、私は未だに大学でテストを受けたことがありません。

テストが受けたくてたまらない!と言うと嘘になりますが、全くないというのも寂しいものだと最近思うようになりました。状況がだんだん回復にむかってきて、全部が対面授業になり、テストが再開される日もそう遠くないのではないかなと思います。

 神戸の下宿で、大学から出される宿題をもくもくとこなしていた寂しい時期に、東高の先輩として、楽しいお話を沢山聞かせてくださった37回生の山崎博美さんにこのタスキを繋ぎます。

No48 岡村さにい 72回生 「コロナと大学生活」

  大阪で一人暮らしをしている大学2年生です。

  あっという間に時間は過ぎて、気づけば大学2年生の7月を迎えようとしている中、「来年はきっと大丈夫」と言われていたコロナも収束の見込みはありません。大阪では緊急事態宣言が解除されましたが、まん延防止等重点措置は発令されたままの状況でまだ日常は戻ってきません。

私の大学では、昨年度は完全オンライン授業、そして今年度もまだ対面授業が徐々に始まり、未だにまともな大学生活を経験できていません。交換留学生にも選んでいただき秋学期から留学する予定でしたが、コロナの影響で延期になってしまいました。

このように上手くいかない日々が続いていた自分を支えてくれたのが、高校時代の友人からの連絡でした。長崎を出たいと懇願していた自分でしたが、離れてみることで長崎が恋しくなっていました。通う学校が変われば置かれる環境も変わり、新しい友人関係を築くことで昔の友人と疎遠になってしまうことが多いと言われる中で、今でも変わらず私に長崎での居場所を残してくれていたり、都会の情勢や一人暮らしを気遣ってくれたりと、距離は離れていても交流が続いているのがどれほど嬉しいか実感することができました。

気軽に旅行ができ、会いたい人に会いに行ける日常が戻ってくることをひたすら願い続けようと思います。

次は、同級生の森島奈央さんにこのタスキを繋ぎます

No47 池田志成 72回生 「強歩大会」

   サッカー部の大先輩からタスキを繋いでいただきありがとうございます。
南陽小学校を卒業し、中高6年間を東で過ごしました。現在は大阪大学に通っており、長崎弁、関西弁、標準語の混ざったなんだか気味の悪い日本語を話しています。 

東での6年間で様々なイベントを経験しましたが、一番印象に残る行事は強歩大会でした。約20キロのでこぼこ道を仲間とともに走破するあの行事。当時は、きつくて苦しくて二度と経験したくないほど嫌な行事でしたが、卒業して無くなってしまうと、なんだか寂しい、、、ということで、登山部を立ち上げ、プチ強歩大会を開催しました!第1回は烽火山。部員は5人でしたが、受験勉強で鈍りきった身体に鞭を打ち、走って登頂しました。もちろん死ぬほどきつかったですが、青春に戻った気がして嬉しくなりました。
第2回は雲仙普賢岳。部員は8人に増え、プチ強歩大会という可愛らしい名前に釣り合わない過酷な山道を登りました。来年はどの山に登ろうかなあ。同期の方々、入部お待ちしております。

次は同じ72回生の岡村さにいさんにタスキを繋ぎます。

烽火山からの眺望。

雲仙普賢岳からの眺望。

 

No46 野崎義規 27回生 「なかなか出来ないこと。」

申年生まれの65歳、高校時代はサッカーに夢中でした。6月で65歳になりました。1回目のコロナワクチン接種終わり、2回目を待っている状況です。接種後は外食にいきたい!

会社勤めも本年の9月をもって退社予定です。なので、断捨離を2年位前からやろうと動いてますが、なかなか出来ません。

身近なところから洋服の処分。タンスの中には着ないスーツ、コートなどその時代に合わせて買った思いがあり、次のシーズンには処分しようとなり越冬を繰り返しています。
親から相続した不動産。長崎にあり、将来管理不能となる事が予想されるのでこれも処分しなきゃ。でも未だ半分残ってる。

気持ちはあるが、執着心・もったいないという固定観念から開放されず動きが遅い。退社後は何をするでもなくただ家にいると、妻から私が早々と断捨離されるかも(笑)。

次は昨年大阪へ進学された72回生にサッカー部出身者がいると聞きました。45歳も若い池田志成君にタスキをお願いしたいと思います。頼もしい後輩、よろしく!

No45 藤重 茂 27回生 「昭和40年代の思い出」

 私は長崎市内で生まれ育ちました。

   磨屋小学校時代は風頭山と中島川にはさまれたエリアが主な活動の場で、当時の県立図書館あたりが最も遠くの行動範囲だったように思います。当時住んでいた家は万屋町にあり、周りはなかなかの賑やかさで、今思えばかなりファンキーな環境で多感な時代を過ごしたものだと思います。
夏休みには鼠島の水泳道場に今村写真館の今村君と一緒に通っていました。もちろん毎日のように徒歩で大波止まで行き第〇鶴丸という渡船に乗ったものです。
また浜町の商店街にもたくさんの同級生がいて、いつもアーケードで遊んでいたのが懐かしい思い出です。アーケードにあった「二枝鼈甲店」の二枝君や、同じく商店街にあった洋菓子の「ルミエル松月」の松永くん、思案橋にあった江戸時代から続く「平石時計店」の平石君、今も観光通りで商売されている、蕎麦屋「明月庵」の矢野君など、懐かしい顔を思い出します。そうそう、榎津町のマンションにプロレスラーになった「大仁田風呂敷」の大仁田厚君が住んでいて、彼とも親しく遊んだものです。
 中学は桜馬場中学に1年かよって、実家が丸山に引っ越したのに伴い、大浦中学に転校しました。丸山の家は花月の裏側の昔は置屋だったと思われる古いしもた屋で、検番の手前の路地の坂を上った、梅園天満宮のそばにありました。今は思い出すすべもありませんが、1970年ごろには丸山公園から花月の前を通る広い通りの両側には遊郭だった大きな木造3階建ての建物がいくつか残っており、不思議な光景でした。丸山遊郭の中心部だったんですね。

子供の頃は古き良き戦前の雰囲気を残した町々も今はすっかり変わってしまいましたが、当時に思いを馳せながらこれからさらに変わりゆく長崎に大いなるワクワク感と若干の寂寥感を感じながら、見守っていきたいと思います。

次は同期の野崎義規君にタスキを繋ぎます。よろしくお願いします。

No44 松田研二 24回生 「読書フリーク」

  伊良林、桜馬場は多くの同窓の皆さんと同じですが、1年途中で転校し大阪の豊中二中を卒業。その後箕面高2年終了後長崎東に編入学した変わり種です。高校は義務教育ではないので、同じように転校して来た2名と一緒に3名の少人数で編入試験を受けたのが50年前の良き思い出です。
卒業後は主に関西圏を転々としましたが、1988年34才の時大津市に落ち着きました。しかし東大阪の職場への往復が体力的にきつくなって来ましたので、29年後の2017年に家を売却し現在奈良市学園前で暮らしています。今67才ですが、70才くらいで退職してもう一度転居する心づもりをしています。

  生来の本好きで退屈したことがありません。広告等を見てどうしても読みたい歴史、科学、健康関係の本があれば新刊書を購入することもありますが、何度も読まない小説関係は主にブックオフで購入しています。
   一方図書館通いを始めて30年になりますが、狙いは例えやや興味薄であっても新刊書です。従って内容はバラエティに富んでいます。自分で購入する本はどうしても好きなジャンル、小説なら好きな作家に偏ってしまいます。それはそれで有りと思っていますが、折角図書館まで出向くわけですので、できるだけ偏らないように意識しているわけです。しかもまだ手垢がついてない新刊書なので文句の付けようがありません。
  数年前のマイピークには滋賀県立、大津市立、奈良県立、生駒市立、大阪府立中央、東大阪市立花園を同時掛け持ちし、それぞれ2週間か3週間後に返却のところを、できるだけウェブで延長手続きをしつつ借りまくっていました。しかしこれだと50冊にもなり全部は読めないことも多かったので本末転倒だと思い、今は奈良県立、奈良市立西部に絞り込んでいます。文庫小説や情報系新書は図書館では比較的古い本が多いので、これらは数ヶ所の行きつけのブックオフでまとめ買いしています。

  小説でよく読んでいるのは黒川博行、濵嘉之、富樫倫太郎、高杉良、宮本輝、池井戸潤、東野圭吾、柘植久慶、佐々木譲、清水一行、大沢在昌、幸田真音、津本陽、吉村昭、山本兼一、海外ではジェフリー·ディーヴァー、マイケル·クラントン、ジョン·グリシャム、パトリシア·コーンウェルの各氏、以前よく読んでいたのは新田次郎、山岡荘八、松本清張、高木彬光、伴野朗、西村寿行、森村誠一、横山秀夫、浅田次郎、邦光史郎の各氏の作品です。司馬遼太郎氏の作品は秘かに退職後の楽しみにしていて、敢えてまだ1冊も読んでいません。

  新型コロナ収束後の同窓会の集いの際、同好の方とお話しできれば、と楽しみにしています。

次は総会の音響マスター、27回生藤重茂さんにタッチします。