No43 泉田豊彦 24回生 「高校の頃に読んだSF小説」

 長崎では伊良林小学校のすぐ近く桜馬場町に住んでいました。今は茨木市に住んでいます。
皆さん「復活の日」という小説をご存知でしょうか?原因不明の風邪が突如流行し南極探検隊を除いて人類が死滅してしまうというお話です。作者は小松左京。1964年の書き下ろし作品です。当時SFで流行っていた人類滅亡ものですが内容は今の状況と重なります。
高校生の頃、私はSF小説が大好きでした。あの頃(1970年代前半)は日本SFの黎明期で、名作がたくさん出版されました。星新一、光瀬龍、筒井康隆 今から思うと本当に懐かしい。長崎の暑い夏、西日のあたる部屋で痩せた少年だった私は尊敬する小松左京先生の小説を何度も読み返していました。新大工町の好文堂ではなかなかSF本は売っていなかったのを覚えています。
昨日コロナワクチンを打ちました。そういえばあの小説ではワクチンは出てこなかったなとふと思いました。

次は中学、高校の同級生だった松田研二さんにリレーです。よろしくお願いします。

No42 梅木敬冶 19回生 「Nagasaki」

 かあちゃん、帰ってきたけんね。玄関あけると条件反射の如く出てくる長崎弁。

実家はもう待ってる人がおらんごとなった。

 教員の小倅として4人兄弟の末っ子、裏山と田んぼや川で遊びほうけた御幼少。小学校は3つ変わった。為石小学校2年生に「冬休みの友」の表紙を雪合戦の絵で表彰され、上長崎小学校6年生にはクラスのホームルームで「ユーモア大賞」をいただき、片淵中学校2年生にはバスケット部の後輩にこっそりラブレターを渡された。我が自分史上輝いていた栄光の日々。
 長崎東高時にはその頃、はやっていたキングトーンズのグッナイベイビーならぬ「3ナイベイビー」、もてナイ、勉強できナイ、夢ナイになっていた。いつしか、鍋の底に沈んでいた。
 しかし、さすがの私、親の束縛とかれ花の東京出て行く頃には自由を謳歌し、てなもんや関西に住みだし、厚顔の美少年は ちょい良し親父にかわってきた。それも、これも長崎、そしてとうちゃん、かあちゃんのおかげです。

 たすきは長崎東関西同窓会の屋台骨であり、カラオケ侍の24回生の泉田さんにわたします。

No41 後町伸子 13回生 「個人的回想」

 またしても13回生なんて、いらんよね!
あまりにも昔の高校時代、大真面目、くそ真面目な東高生。
重い鞄を持って休まず徒歩15分。経済学部裏門近くの『まちだ煙草屋』小店で夕方は、母に代わって店番。それでタバコも覚えました??いやあそんなこともあったかな。
 夕方の店番故、部活はできずそれを何とも思わずぼーっとしていた高校時代。受験期に入ってようやく色づき友人のお供で本河内の同級生の家に通ったなあ。
「この頃どうかしてるね、町田さん」と担任に注意を受けた。大切な時には必ず暗転させてしまう得意技。
 東高のロートル先輩にはこんな人もおるんです。

 5年前他界した弟が23回生、さるくの会の世話人に23回生の方がいらしたのを機に、たまにさるくに参加させてもらっています。反省会付のさるくが再開できますよう祈っています。

お閑な方「遊歩徒然(NOBUのつぶやき)」大したことはないブログですが覗いてみてください。

次は19回生でアグレッシブな梅木敬冶さんにタスキを渡します。梅木さんよろしくお願いいたします。

No40 近藤芳民 13回生 「思い出とコロナ下の近況」

 旧満州国の新京で生まれ、昭和21年に引き揚げ、現在の南島原市で育ちました。

 現役時代、欧米の会社と仕事をした時は、ジャパンアズNO1と囃された時代でもあり日本人は個人的にも大事にされました。寧ろ、痛感したのは、自由に意見を言えない語学力の乏しさでした。
 一方、モスクワでの打ち合わせでは、分裂の少し前でしたが、ソ連の人達が自信を無くしているのが分かりました。満洲引き上げは、殆ど記憶していないものの、國の盛衰で個人の運命も決まるんだと、実感したモスクワ訪問でした。

 コロナ下での外出制限対策として有効だと思い、ラジオ英会話に再挑戦しています。記憶力と滑舌の低下は否めませんが、時間は有り余っているのが強みです。80歳までには成果をあげて、孫娘達を驚かそうと,密かに目論んでいます。
 コロナと中国問題を切っ掛けに、世界も変わりそうです。主役は子供や孫達の世代でしょうが、どんな日本になるのか、我々も少し覗き見したい気がします。

 次は同期の後町伸子さんにタスキをお渡しします。

No39 山口隆雄 13回生 「近況」

現在、京都府城陽市に住んでいます。

私は若い頃から、4百万年の歴史をもつ琵琶湖に興味を持ってきました。そして定年退職後、仕事から離れて「琵琶湖から世界へ」をテーマに本を書くことにしました。これまでに3冊(うち1冊は翻訳・世界版)を出版しました。何しろ、私の強みは「365日フリー」ですので、いつでも、どこへでも飛び込んでいくのをモットーにしていまして、世界の辺境の地(中国奥地やロシアシベリヤのバイカル湖等)を訪ねたり、琵琶湖周辺でも山奥(クマ、シカ、サル、イノシシも出没)にも行きました。また、琵琶湖の歴史を辿るために三重、岐阜地域まで、さるき回りました。 

私は、学者、専門家が書かないものを、質的にも自分で納得できるものを目指していますので、1冊書くのに3~4年かかります。本の内容についても読者が「これホンマかいな!」、「おもしろい、真なり」と感じてもらえるようにしています。

私が本を書く中で一番感動したのは、現地調査で「私たち日本人のルーツである縄文人の心豊かな生きざま」を強く感受できたときでした。また、著者としての喜びは多くの皆さんに読んで頂くことで、孫の世代まで長く読んでもらうことを念頭において書いています。現在、私の本は全国の図書館約220館(公立図書館、大学等)にも蔵書されており、毎日どこかで皆さんに読んで頂いています。

次は同じ13回生の近藤芳民さんにタスキを渡します。

びわ湖全景:   壮大で、碧く美しい

冬の奥琵琶湖は美しい:  竹生島と伊吹山を望む

びわ湖葛籠尾崎湖底遺跡(白い円のエリア):
深い湖底(~70m)から多くの縄文・弥生土器が引上げられた
・・・びわ湖最大の謎!!

No38 後藤博一 12回生 「同窓アラカルト」

  長崎市東浜の町に生を受け、戦後すぐ、中通り商店街の諏訪町に転居し、磨屋小・桜馬場中・東高・長大(経)と通学はすべて徒歩1分から20分程度でした。
学生時代の思い出は、小学生時代が一番強烈に残っており、クラス会も商売人の子供が多いためか、現在まで68年間細々と続いています。

小学校に入学のころ長崎くんちが復活し、諏訪町の出し物は【龍踊り】で戦時のブランクをカバーすべく囃子方の猛特訓をうけた記憶が鮮明に残っています。本来、くんちの踊り町は7年に1回廻って来るのですが、くんちを盛り上げるため、特別出演で別途3回ほど出演し、朝から夕方まで3日間、旧長崎市内を練り歩き、未だ食糧難の時代に丸山の料亭「花月」で毎回おいしい昼食をいただいたことが忘れられません。
それともうひとつ、小学校の夏休みに、長崎港の出口にあった鼠島海水浴場に、大波止から船に乗って夏休み中毎日、小学校の上級生が下級生を引率し、海水浴場で夏を過ごしました。今考えると子供だけの海水浴を親がよく許したものだと敬服してます。
今後とも、各同窓会に元気で参加したいと思っています。

 次は一年後輩の山口隆雄さん(13回生)にお願いいたします。山口さんよろしく!

昭和30年頃まで、従来青龍だけの奉納だったが、以後新たに白龍を加えて、奉納踊りを行った。

昭和30年頃、諏訪町の出し物(竜踊)の稽古の後の記念写真。多人数での稽古場がなかったので磨屋小学校の校庭を拝借。私は2列目のどこかにいます。

No37 藤城 隆 11回生 「私の沖縄でのゴルフ体験」

 関西同窓会ナイスショット&ファーの会メンバーです。

私は50年間のサラリーマン生活中で平成元年末から6年春迄の5年間は沖縄に勤務していた。 ゴルフは、30歳頃から始めて50年間続けて、今も「ファーの会」で楽しんでいる。

沖縄に赴任していたある日、九州の友人から「川上(元)監督とゴルフしないか?」とのお誘い。川上監督と言えば、野球オンチの私でも、王・長嶋等多くの名選手を育て・V9を達成した「日本野球の神様」のような存在。当時川上監督はNHKの野球解説者として毎年2月頃から沖縄でキャンプインする日本プロ野球球団をレポートされていて、今回一日空きがあるという。二つ返事で地元の社長と同伴プレーをすることとなった。川上監督は、現役時代の赤バットならぬ赤シャフトのドライバー(フアンの贈物)で、その長身な体からパワフルな素晴らしいショットをされた。勿論バットと同じクラブも左打ちでした。

終わって試しに手のひらを合わせて貰ったら、私の手のひらより3割程大きく、まるでグラブのような手のひらでした。昼食の間に色紙に「平常心」と書いてもらい、また車中の会話では「現役時代は今日の対戦相手とは別にマスコミとの戦いだった」と苦慮された事など、私にとって大変有意義で楽しい一日になりました。故人を偲んで30年前の思い出でです。

PS
数年後、川上監督は首都圏で「レフテイの会」を主催し、首都圏から沖縄に50名の会員を案内して「レフテイ・チャリテイ」コンペを主催し沖縄の施設へ寄付をされたことを地元新聞で知った。

次回バトンは同じゴルフクラブの後藤博一さん(12回生)にお願いします。よろしく!

No36 平山 良 22回生 「長崎名物??」

  万才町の家庭裁判所近くに住んでいました。高校卒業とともに長崎を引き払い兵庫県川西市に50年です。
港町の1番は長崎、2番は神戸(妻の出身地)、3番は横浜(息子在住)と話していたら、息子と孫が長崎に連れて行けとのリクエスト。ちょうどランタン祭をやっているとか。(ランタン祭?しらんなぁ!)
長崎はやっぱりよかとこ。魚料理や中華料理も美味しく、路面電車で巡る観光地も整備されていて祭りの演し物も孫が楽しめて良かった。長崎名物だというトルコライスとサバサンドを所望されてビックリ!そんな食べ物があったかいな?名物に旨いものなしと言うから止めておこうとパスした。孫に食べさせるにはネーミングがねぇ?!
なんじゃかんじゃ言いながら長崎へ毎年の旅行となり「くんち」はコロナに阻まれた。長崎名物を探す旅はまだまだ続く!!

次はゴルフクラブでいつも元気にプレーされている藤城隆さん(11回生)にタスキを繋ぎます。藤城さん、よろしくお願いいたします。